決断の時

毎年1月には、今年の目標と現状をお聞きしながら、お一人お一人の「今」をコンサルティングしています。

コンサル生の中には、大事な「決断」をせざるを得ない場面にいる方もいらっしゃいます。

私からはアドバイスとして

「迷っているうちは、どちらに決めても上手くは行かないこと」
「決断は感情でするのではなくて理性ですること」
「大事な局面では、男性は当てにならないこと(笑)」

などをお伝えしています。

幼いながらに「決断」をした息子

そんなお話をしたある夜に、思い出したのはすでに社会人になっている息子が子供の頃のことです。

時は・・・2002年6月。場所は、韓国 光州ワールドカップ競技場。

サッカー日韓ワールドカップの「韓国×ポルトガル」の準々決勝戦。

韓国がPK戦を制して強豪ポルトガルを倒し、ベスト4になった試合です。

当時、小学校4年生、9才の息子と主人とで弾丸で観に行った一戦でした。

出来たばかりの最新のスタジアムで観る、世界最高プレーヤーの試合中での、選手同士の指示をする声や息遣いをも聞こえてくるような試合でした。

9才ですでにサッカー歴5年、6年生チームのレギュラーポジションでボランチをやっていた息子にとっては、初めて感じた世界レベルです。

真剣に試合を観ながら息子が
『ワールドカップって面白い♪ 僕ワールドカップに出るよ!』
と何気なく幼い「夢」と「目標」を思い描いたようでした。

それを聞いていた主人はニンマリ。
(主人は、息子に4才からサッカーボールを与え、教えながら、密かにプロ選手にすることを決めていましたので・・・笑)

私は息子の「決断」を聞いて驚きと嬉しさを同時に感じながら、この時、彼の「決断」がファミリーの「決断」となったのです。

当時住んでいたのは、主人の実家がある埼玉県。

埼玉県は、静岡県と並びサッカー県として知られるところです。

県内に「浦和レッズ」「大宮アールディージャー」と2つのプロサッカーチームがありました。

そんな環境の中、息子が小学生の時に所属していたチームは埼玉県でも有数な強豪チーム、ジェフユナイティッド千葉で、兄弟で活躍していたプロ選手を排出していたチームでもありました。

当然、練習も平日に週4日、土日は練習試合で、埼玉中の少年団のチームへ遠征と小学生にしては、かなりの練習量と試合数でした。

一方で、2000年から私の会社は最高売上を更新中であり、1年365日のうち300日は東京のオフィスで泊まりの日々でした。

なので、息子の「決断」を後押しするために、近所に住む主人の実家の助けを得ながら、主人に息子が9才から15才になる6年間、家庭を切り盛りし、息子のサッカースクールへの送り迎えなど「主夫」業をしてもらうこととなりました。

「決断」が砕かれる時

しかし、息子の「決断」が大きな壁の前で砕かれる時がきます。

小学5年生で、日本サッカー協会の選抜の仕組みにより、最終的には「サッカーアンダー12」の23人のメンバーまで選んでいきます。

息子はトレーニングセンター制度で埼玉でベスト100までに選抜されましたが、関東トレセン、その上の全国(アンダー12)には行けず、6年生の秋に埼玉県のトレセン(トレーニングセンター制度)の選抜から落選となりました。

落選の通知が来た翌日から、息子は張り詰めていた気持ちが一気に緩んだのとショックのあまり、39度の高熱をだし、1週間寝込んでしまいました。

大人の中に生まれた一人っ子ということもあり、寡黙で口数も少なく、黙々と好きなことをするタイプ。

故にリーダーになるタイプではなく、参謀としてチームを引っ張る職人肌でした。

4才から始めたサッカーは、息子にとっては「楽しいが厳しい練習もあり、それでも夢に向かって誰よりも上手くなりたい競技」でした。

ですので、疲れていても弱音もはかず、嫌なことがあっても口にすることもなかったが故に、今までのストレスや練習の疲れも出て心身共に疲弊してしまった状況でした。

6年生の秋の時点で埼玉県の選抜に漏れるということは、Jリーグの下部組織のジュニアユースチームに入ることがかなり厳しい道のりとなるということを意味します。

つまりは、プロサッカー選手になる道がかなり遠のいたことなります。

この現実、「挫折」に向き合う息子に対し、親としては黙って見ているしかないもどかしさがありました。

そして何より、私もまた息子と同じ「挫折」を感じていたのも確かでした。

毎晩、高熱で苦しむ息子の手を握り、彼の辛さと悲しさショックを、肌で感じることしかできませんでした。

「好き」なだけでは通れない壁を突破するために必要なもの

そんな状況でも所属チームの県大会予選は迫っていきます。

1週間寝込んだ息子でしたが、否応無しに起き上がり、チームのために県大会の予選に出場しなくてはなりませんでした。

休むことは許されなかったのです。

息子は県大会出場の常連チーム、4年〜6年生で100名近い部員がいる中、ボランチというポジションで4年生の時から、レギュラーを任せられていました。

当時、4年生〜6年生の時で息子の身長は130cm〜140cm といったところで決して大きくはなく、6年生で170cmある子もいました。

そういう大きな選手や上級生を相手にボールの奪い合いをし、素早く味方のフォワードにパスを供給する役目です。

チームの攻守の要であり、試合中は常にチームの中心に位置し、試合をコントロールするハンドルの役目。

ボランチのレベルでチームの強さが変わって来ます。

でも、得点をするフォワードとは違って目立たないし、常に縁の下の力持ち的な地味な役割であるボランチのポジションを常時させられることに、息子自身も随分とジレンマがあったようです。

しかし、チームの監督は『勝つ』ことにこだわっていました。

息子の休んでいる間に、控えの選手で行った練習試合はボロボロの惨敗だったとか。

常勝を義務づけられていたチームには「負け」は許されなかったのです。

息子は病み上がりの体でしたが、試合では迷いが吹っ切れたように随所に好プレーを連発していました。

『サッカーが好き』というのが伝わって来ます。

しかしこの時に、主人は息子の「決断」がくじかれたことを悟ります。

プロサッカー選手になるためには『好きな気持ち』だけではなく、もう一つ上の『アピール力や他の人を押しのける我儘さ』が必要なのです。

素人の指導者の目にも『誰よりも目立つこと』。目立つのは身長が大きい、足が早いフォワード陣です。

『パスを供給する側ではなくて受ける側のポジションにいること』
集団でやるスポーツでは、特に小学生の段階では必須の条件でした。

息子には、ポジション的なことや身体的なことから『他の人を活かすことはできても、押しのけるだけの我儘さ』は無かったのです。

「挫折」を味わったからこそ身についた自分で決断する力

その後の息子は、中学時代は高校選手権に出場した高校のジュニアユースチームに所属し、センターバックのポジションでレギュラーで活躍したにも関わらず、高校では、レスリング部へ。

いきなりの個人競技です。

息子に「何故レスリングなの?」と聞いたところ
「団体競技は、もう〜いいかなって」
「個人の力が試される競技がしたいなってね」との返事。

この時に、息子の次の「決断」を感じました。

埼玉県のレスリング部があるマンモス校の「特別進学Sクラス」に入った息子には、「保険体育課」で進学して来たレスリングの申し子たちとの切磋琢磨が待っていました。

身長170センチの小柄でしたが、練習中に二度の腕の骨折を経験しながらも、高校2年の新人戦で60キロ級フリースタイルで、県大会で優勝。

個人、団体戦でも全国大会に出場し3回戦まで進出。

進学クラスでの勉強と、朝練と、夜遅くまでの練習とかなりの負荷をかけながら3年生の夏まで、レスリング漬けの日々を過ごしました。

息子の「ワールドカップ出場」の夢は、無残にも数年ではかなく砕け散り、それを受け入れた時に次の「決断」をすることができたこと。

そして、選んだ環境の中で自分がどこまでできるのか?どこまで通用するのか?
そんなことを確認できたのでしょう。

彼は、レスリングで大学進学ができる環境にいたにも関わらず、迷わず新たな道を選びました。

ここまで息子の軌跡を書きながら、環境の中で「自らの立ち位置を知る」「自らの力量を知る」ということの大切さと『理性的に判断することの大事さ』を改めて実感したのです。

4才から始まった息子のスポーツの人生でしたが、この間に、息子に「ああしろこうしろ」と言ったことはありませんでした。

高校進学の時も、サッカーのチーム選びの時も、大学進学の時も、就職の時もです。

サッカーに関しては、素人の私よりははるかにサッカーを知ってます。

11才で最大の『挫折』を経験した彼は訳のわからない指導者に、トコトン比べられ、評価される苦しさや理不尽も味わいました。

そして人生の選択の時に、親の押し付けで進路を誤った・・・と感じていた主人と、親の干渉を一切受けることなく、進学も就職も独立も全て自分で決めて来た私です。

そんな夫婦の息子に生まれて、窮屈な時も寂しいと思う時もあったでしょうが、時には落ち込みながらも「全て自分で決める」、それだけはできるようになっていました。

息子は、建築大学を大学院まで出て埼玉県庁に就職。

建築出身者の就職先としては、恵まれた環境にいるのかもしれません。

ちなみに、小学生の時の同じチームで、息子のパスを受けていたフォワードのエース君は湘南ベルマーレから大宮アールディージャー所属のミッドフィルターとして、プロサッカー選手となりました。

中学の時のジュニアユースチームで、やはり息子がパスを供給していたフォワードのエース君はジェフユナイティッド千葉所属のディフェンダーとなり、チーム主軸のプロサッカー選手として活躍。

埼玉県での強豪で対戦相手でもあり、小学生大会の全国優勝したチームにいた、同じ世代のフォワードのエース君は23才で全日本Aチーム入りし、海外チームに所属しました。

ロシアワールドカップ、アジア大会でも得点を決めたエースになっています。

「挫折」は幸せの道を見つけるための分岐点

「決断」も「挫折」も人生の中では、多々あること。

いくら実力があろうが、条件が揃わなくては叶わない世界もあり、夢は必ずしも叶わないこともあるのです。

「挫折」の時にこそ、新たな世界と活躍の場を見つけることができるかどうか。

そこがあなたなりの幸せな道を見つけられる分岐点となるのです。

そして、何よりも大事なのはあなた自身の心の声と、感情ではなく理性で判断することです。

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