成功する起業家が持っている24の資質・10『精力的なエネルギー』

ニュースレターでお送りしている「成功する起業家が持っている24の資質」の10番目の資質、『精力的なエネルギー』についてお送りいたします。

今回、こちらに書かせていただく24の資質は、私自身が38年の起業家として観てきた企業のトップや成功したクライアント達、そして、2012年から個人コンサルテーションをさせていただいた330名あまりのクライアントを観て分析したり、自分自身で経験したことからまとめた内容です。

あなたのマインドセットにお役に立てたら幸いです。

『精力的なエネルギー』とは

『精力的なエネルギー』とは、具体的にどんなことか解りますか?

それは・・・

自らがエネルギーの源となり、周囲を動かし流れや新しいカテゴリーを作って行く思考や行動力のこと。

こうやって文字に書き出すと「なーんだ。そんなこと」と思われるかもしれませんが・・・

世の中には『起因』と『受け身』という二つの役割があることを知っていますよね?

『思考は現実化する』

ナポレオン・ヒルの有名な著書のタイトルですが、このタイトルの通り世の中の流れは、誰かが最初に『A』という概念を考え出し、その『A』の考えが、第三者の人との間で共感を得て、やがて、その思考の渦が大きくてなっていきます。

そして、『A』 を実現しようという行動が起こり、現実化して行くのです。

そう〜〜みんなで渡れば怖くない・・・そんな流れです。

そしてこの流れの中には
最初の概念を考え出した人が「起因」
その考えや流れを受け取って追従して行く人が「受け身」
そんな風に二つの立場に分かれます

女性は特に、この「受け身」という立場を歴史的にも強いられてきたこともあり、好む方も多いかもしれません。

例えば「星占い」などに一喜一憂しながら、良いことが起こるのを待っていて夢見ているだけ。

そんな「受け身」の方も多いのが現実です。

でも、あるカテゴリーの中で歴史を変えるほどの『起因』になれたとしたら…

人生のチャレンジをしてみたくはありませんか?

「日本におけるデザインの価値を高めたい」CIの祖・中西元男氏

今回のエピソードの主人公は「日本のデザインの価値を高めていきたい」と、1970年代初頭〜1990年代半ばを最盛期として、CI(コーポレートアイデンティティー)という手法を日本に取り入れ、日本のデザイン界、経済界で活躍なさった方で、今なお、日本のデザイン界の重鎮として活躍なさっている方です。

1971年に東洋工業からMAZDAへ
1976年に小岩井乳業を小岩井に
1977年に銀座 松屋をMATSUYA GINZA へ

その独自の手法で蘇生させ、

1980年代には日本電電公社からNTTへ
さらには1992年に新規事業としてのNTT Docomoなど

日本の代表的な企業を次々と、デザインを使った経営コンサルの手法で事業開発、経営の再生、事業構造の変革など日本型CIのスタイルを編み出して来ました。

アジア、日本でのCI(コーポレート・アイデンティティ)の創始者であり、第一人者の方。
*CI(コーポレート・アイデンティティ)とは、今で言うブランディングの手法の元祖のこと

大学の先輩であったPAOSの中西元男氏と最初にお会いしたのは、1980年代の初頭でした。

大学の同窓会でお見かけした中西氏は、当時40代後半で、私よりも20年以上の先輩。

すでに自動車メーカーのMAZDAやMATSUYA GINZA の成功を納めており、私はちょうどデザインの業界に入って1年目、それこそヒヨッコと呼ばれる時期でした。

彼を取り巻く山ほどの人混みの中、やっと中西氏の話が聞こえる所にたどり着いた私は、彼の一言ひとことを漏らすまいと耳をそばたてていました。

『ヨーロッパやアメリカでは、デザイナーやクリエイターは本当に大事にされているんです。
例えば、大手の企業のブランドマークをデザインする場合そのギャラは1000万くらいが普通。
でも、日本にはその金額は一般的な価格にはなっていないですよね。
それだけデザインに携わっている人間の、社会的な地位が低いんです』

『僕は、日本におけるデザインの価値を高めていきたいんですよ』

と中西氏がおっしゃっていました。

周囲の方も含め、1000万という金額に少々驚きの表情の方が多い中、パッケージデザインの世界でやはり第一人者と呼ばれていたM氏が続きます。

『確かにデザイナー、クリエイターが経営陣と対等に話ができる時代にしないと』

それを受けて中西氏が

『そうですね!
日本では、デザインの持つ力が企業の再生に繋がると言うことを、まだ本気で思ってらっしゃる企業は少ないです。日本の社会をデザインで変えていかなくてはね・・・』

その当時、大先輩のおっしゃっていることが私には手の届かない雲の上のような話で、就職はできたけれども、デザイナーと言う肩書きにはまだまだ見合わない自分の非力さを感じていた時期でした。

中西氏の華麗なる歩み

少し中西氏の歩みをお話していきましょう。

中西氏の活躍のスタートは1960年。

私の母校を卒業後、早稲田大学に。

そこで「デザイナーが担う役割も大切なものであるが、経営者に理解されるデザイン理論・採用されるデザイン手法の開発も重要なデザインの仕事である」と考え「デザイン研究会」の活動を展開。

1971年にCI(コーポレートアイデンティティ)のバイブル「DECOMAS」を刊行。

経営戦略としての、デザイン統合がコンセプト

書籍の内容は、企業経営とデザイン戦略に関わる長年の研究活動の成果としての「理論編」、そして、数年の資料研究を背景とした3ヶ月に及ぶ米国取材の成果としての「実例編」からまとめられたもの。

この出版は、当時のデザイン界、経済界での評判となり、この刊行を皮切りに次々とビックプロジェクトがスタートしました。

1971年、日本で初めての本格的CIプロジェクト「マツダ」(自動車メーカー)を手がけられ、この事例、東洋工業からMAZDAへのコーポレートブランド変更の事例は、8年間に及ぶプロジェクトとなり、経済界にも大きな波紋を投げかけていくこととなります。

1972年には日本型CIの原点「セキスイハイム」を手がけました。

このプロジェクトは「積水化学が新たに立ち上げる画期的な、ボックスユニット工法の住宅事業をいかにして成功に導くか」-デザインだけでは無い、ビジネスデザインを成功へ導いていく、事業開発型CIの日本における雛形となります。

1976年には、ブランドイメージ戦略マーケティングで、都内百貨店比で、対前年末売り上げ対比273倍の驚異的な売り上げをあげた「小岩井」(乳製品の小売業とレストラン業を展開)。し

この事例はブランドアイデンティティ・マーケティングの歴史に一大エポックとなります。

1977年名門老舗百貨店「松屋」の劇的蘇生。

日本一と言われた商街区で100年余の歴史と、地域一番の売り場面積を持っていた名門百貨店は、日本経済が安定成長期にあった当時、対前年比97%のマイナス成長状態で沈滞していました。

「どうすれば会社を潰さないですむか?」という課題解決からスタート。

当時、銀座の街は魅力を失いさびれていく中、銀座の街の再興と、松屋の経営立て直しを併せて成し遂げる政策が取られ、《MATSUYA GINZA》のロゴを核とする、再建プログラムを実施。

実施後、2桁増しの急成長を遂げ、2年で株式の復配にこぎつけ、デザインという切り札をもつ、経営コンサルタントとしての確固たる地位を確率されていきました。

私が中西氏のご活躍とそのビジネスの全容を知ったのが、このMATSUYA GINZAのリニューアル後。

1978年20才、大学在学中のことです。

中西氏のビジネススタイルは、世界からの情報収拾と研究、それを実際の仕事に落とし込んでいきながら、検証と実績を積み重ねていくスタイル。

1979年〜1983年には、企業哲学の構築から始まる、CIやアイデンティティ・デザインの優れた啓蒙書として世界的に認められた書籍「企業とデザインシステム」を刊行。

中西氏の会社は、この分野のリーディングカンパニーとして確固たる地位を築いていきました。

1980年代には
1981年 KENWOOD
1983年 INAX
1984年 NTT
1985年 伊藤忠 などを手がけ、

この間に、ニューヨークとボストンにオフィスを構え、ハーバード大学MBAやスタンフォード大学MOTなどのビジネススクールの教科書にも取り上げられ、記念講演にも招聘を受けます。

1988年の20周年記念展
1889年「毎日デザイン賞」受賞
1990年「第1回勝美勝賞」受賞
1992年 NTT DoCoMo

をピークとして日本経済のバブル崩壊が始まりました。

知的財産に対する価値認識が低かった時代

私が2度目にお会いできたのは、1992年の夏。

お知り合いであった大手電機メーカーのCI室にいらっしゃる方からのご紹介で、中西氏が「CIと金融を同時に進めている人材を探している」ので、是非会ってみませんか?と、ご声をかけていただき、金融業界出身のパートナーと一緒に当時のオフィス、千代田区六番町のビルに伺いました。

私が同窓会でお会いし、お話を聞いてからなんと12年ぶりのことです。

桑沢デザイン研究所という専門学校での同窓生であり先輩。

懐かしい思いと共に、この10数年、常に中西氏のご活躍は刺激となり、氏の著書は「デザインと経営、マネジメント・コンサルティング」というテーマで、私のビジネススタイルを作る原点とも言えました。

千代田区六番長のオフィスは、4階建てのビルの3階部分を占有していました。

クリエーターのオフィスとしては、インテリアデザイン、システム面、全てにおいて、日本のデザイン会社の最高の環境とも言える作り。

緊張した面持ちでお会いした中西氏は、11年前の母校でのお話しは覚えてらして・・・

『高橋さん。
10年前に桑沢で話したことはほぼこの10年でやり遂げたかようにも感じていましたが…いやいや、日本の企業はまだまだ認識が甘いです。
経済危機があっただけで真っ先に広告費関連の予算を縮小してしまう。
(当時は、中西氏のビジネスエリアも企業側では、広告費の範疇に入っていました)
企業の生き残りをかけるならば絶対に削ってはいけない費用を削ってしまうんです。
残念ですが・・・』

私のパートナー
『そもそも中西さんのお仕事は、広告費の範疇で処理されるお仕事内容では無いですよね?
アメリカでは、財務書証の中にブランドの意匠権や商標権はのれん代として明記されてまして、れっきとした財産として評価額も付いてますが、日本ではどうなんですか?』

中西氏
『日本では、まだまだそこまでの認識は無いですね。
知的財産に関しては、まだまだ社会的な認識度が低い。
コンサルタント契約の形ですが、経理上では広告費以外での処理ができないのでしょう。
そもそもCIとは、ストックのデザインであり、流行やトレンドに左右されるフローのデザインでは無く、企業が存続していく限り、使い続け、ブランド価値が上がっていけば、価格も上がっていくものですが・・・
そこの所の啓蒙も、随分提言してきましたがね。
日本の企業は、目先の景気の動向に左右されがちです』

パートナー
『会社を売買するという慣習が、あまり無いのもその原因の一端ですかね?』

中西氏
『それもありますね。
日本はまだまだ同族会社が幅をきかせている民族です。
上場しないで同族経営をしながら、高収益の一流企業が多い。
企業の内部事情を開示して、外の資本が入るのを嫌う慣習がありますね。
ブランドマークの意匠権や商標権が財務書証に乗るには、まだまだ10年やそこいらは、かかるのでは無いでしょうか』
(*注:1991年のコメントですので、現在の慣習とは違うかも知れません)

1990年から始まった『バブル経済崩壊』は、中西氏のビジネスにも大きな影響を及ぼしているようでした。

『精力的なエネルギー』で周囲を巻き込み、半世紀以上活躍し続ける

そんな話の中私が
『中西さんの精力的なご活躍の元となるエネルギーはどこから来るのでしょうか?』

と質問した所

『僕は、1960年代の学生時代にイタリアに旅行に行った時にね。
なんでも無い古びた漁船の村の、酒場の看板のカッコ良さにシビレたんですよ。
色の配色といい、イラストといい文字の配列といい、文句のつけようの無い。
ましてやデザイナーなんていないであろう漁船ですよ!
その時に、日本の戦後の匂いの残る街並みやカラーで言えばグレー1色の街並みというか。
そんな日本を変えなくっちゃ!と、単純に思ったのがきっかけですね・・・』

『イタリアにはデザイナーが要らない。
市民一人一人がデザイナーだと思いましたね。
日本人には、個にまだまだそこまでのセンスは無いでしょう。
国民一人一人がデザインを理解できる民族であれば、これからの産業も経済も変わっていきますよね・・・』

中西氏の素顔が垣間見えるお話に内心ホッとしながら、

『僕は、関西人やし綺麗なものやカッコイイものが好きなのね。
それをみんなに教えてあげたくってね。
まず調査して研究して、それを仮説でシュミレーションして実際の仕事に落とし込んでいく。
そんな繰り返しを30数年してきましたけど、自分の発想や気づきが周囲に行き渡るまで言い続ける。
実験的なビジネスを、これからも続けていくでしょうね・・・』

そんな言葉を最後にオフィスを退いた私とパートナーは「日本経済のバブル崩壊の影響を、どうぞ受けないでいただきたい」と、当時は説に願ったものでした

しかし、中西氏のビジネスも1990年に始まったバブル崩壊の影響の元、次々と契約解除の申し入れがあり、経営危機に陥ったとのことでした。

50名近く居たスタッフの組織を解散、10名ほどに縮小し1995年にオフィスも移転。

その後は中国に進出なさり、中国での数多くのCIの実績を踏まれ、

2000年代には自治体などでの実績

2010〜2018年3月 ATRAMD(戦略経営デザイン人材育成講座)を開講

2015年10月~ 東京2020オリンピック・パラリンピックエンブレム選考委員

2017年 beyond2020シンボルマーク審査委員長 など

現在、80才代となっても『精力的なエネルギー』で周囲を巻き込み、半世紀以上に渡りデザイン界、経済界での重鎮としてご活躍をなさっています。

自分の内からなる欲求から外に向かって発信していく『精力的なエネルギー』を持ちましょう

今回の中西氏の事例をここに書きながら、大先輩の道のりを改めてみて感じたことがあります。

『起因』となっていく方の人生は多くの課題や試練も引き寄せながらも、それを乗り越えられるだけの十分なエネルギーをも引き寄せ、良質な『精力的なエネルギー』を実に楽しみながら発信することは、社会現象ともなるような現実を実現していくのだと。

どうせ一度の人生。

何かを自ら作り出していける『起因』となれるよう、『精力的なエネルギー』を持ち続けていたいですね。

誰に指示されたでもなく、誰に示唆されたのでも無い。

自分の内からなる欲求から外に向かって発信していく。

そんな行動が『起因』になる最初の一歩です。

今はブログ、メルマガ、各種SNSであなたのコンセプトを発信できるベースがあり、そこで人気を集めることも可能でしょう。

でも・・・そこにあなたの哲学はありますか?

ちょっと難しいかも知れませんが、『精力的なエネルギー』はできたら良い側面で使って欲しいのです。

もちろん自分のためも含め誰かのためにお役にたつもの。

もしくは環境や社会を引率するもの。

そんなフローに人々は引きつけられます。

でも何よりも大事なことは、あなた自身がただ待っているだけでは無く、それを起こすのだと決める。

まずは”自分のエネルギーを精力的に使っていく”と決めることがスタートなのです。

そして、あなたの人生の成功は『起因』になれる度合いで決まるとも言えるのですよ・・・


一部転載
*中西元男実践人生
http://www.designist.net/blog/

*PAOS
http://www.paos.net/index.html

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